備忘録

虫さんなので走りません

美しき死を

※注意!

 ガチで死のうとしてた時のガチの遺書です!

 また、以降の文章と遺書については、自殺を推奨する文章ではありません。ご留意ください。

 

 僕は自殺決行直前に良き出会いがあり、今に至ります。過去の自分に対して思うところは色々ありますが、供養のため投稿したいと思います。

 僕は今の自分に対して「生きていてよかったね」「死ななくてよかったね」なんて言葉は絶対にかけないようにしています。なぜなら当時の僕が死の決断をしたことの勇気を踏み躙ってしまうから。

 死を決断するというのはとてつもないエネルギーです。死を悩んだ人にはわかるはず。それを決断した自分に対して、そんな言葉はかけられないしかけようとも思わない。

「自殺 方法」とかで検索すると出てくるよくあるサイトで「良い出会いがあるよ」「幸せがこの先に待ってる」なんて言葉や「昔は死のうと思ったけど今は幸せ。生きていてよかったと思うからあなたも生きて」なんて言葉を聞いてムカムカしていた自分が、同じ言葉を過去の自分に投げかけれると思う?

 昔の自分にかけれる言葉なんて「お前は設定1の人生で頑張った」「無理すんな、どんな人生でも辛いことは辛い」「生きても死んでも良いことも悪いこともある」そんな言葉ばかりだ。死んでも(クソウマギャグ)僕は「生きて!」なんて言葉はかけられない。

 今死ぬことを迷っている人もいるだろう。そこの決断する壁はでかい。そこを乗り越えた人に僕からかけられる言葉は、労いの言葉だけだ。

 乗り越えようとしている人、乗り越えかけの人へ。僕は生きろなんて言わないから安心してほしい。ただ、後悔が残らないようにだけ気をつけてほしい。

 

 以降の文章は当時の遺書そのままの文章です。 

 読む方によってはかなり辛い気持ちになってしまう方もいるかもしれないので、ご注意を。

 大丈夫な方は、スクロールどうぞ。

 

 

 

 

2019/9/28本文作成開始

2020/8/31下書き保存

2020/12/25投稿予定

■まずはじめに家族、友人、その他関係者の皆様へ。

 突然のことで驚かれたことだろう。いや、半ば予測していた人も居たかもしれないし、こいつならばいつかこういうことをすると思っていた人も居るかもしれない。そんな貴方は僕のことをよく知っている。えらい!

 さて、これから書くことは単なるお願いだ。もちろん無視する権利もあるよ。でもまあ、少なくともこのブログを目にするだけの関係性を持った人であれば理解してくれると信じている。

 お願いというのは、今回起こったことは「事故」だと各方面に連絡していただきたい。という事だ。何か聞かれても事故が起こっただけ。まあ実際大きく間違っている訳ではないと思うし。

 そして、僕がそれなりに仲良くしていると判断した人にはこのブログを広めてほしいのだ。本当につまらない駄文ではあるけれど、不幸の手紙よろしく広めてやってくれ。仲良かった友人には普通に本当のこと教えてあげたいし、遠慮せずに伝えてね。

 それから、家族には多分Twitterのアカウントを使えるようにして残しておくと思うから、それで今回の事とブログを公開してもらえればなと思う。よろしくね。

 葬式に関しては任せた。家族だけでやってもいいし、俺のTwitterで募ってもいいし。そこら辺は好きにして。

 

 

■本文

 いつか死ぬならば、美しき死を。そう思いながら生きて来た。思春期を迎える前からぼんやりと感じ、思春期を経て確かなものとなった。不確定な死を迎えるのなら、すぐにでも美しき死を演出しても良いとまで思っていた。

 

 敬愛するwowaka氏が亡くなった時にもお話させていただいたと思うが、僕は絶頂を絶頂のままで保存したいと感じる人間だ。衰退が美しきものであればそれで良いけれど、殆どの場合はそうではない。これも同様に、不確定な美しさであるなら確実な美しさを求めた方が良い。ここまで書いて思ったのだけれど、きっと僕はギャンブルは向いていないだろう。回数を経るごとに蕁麻疹が出てそのうちに死ぬと思う。

 

 では、僕の考える美しき死とはなんだろうか。これは実際、僕もよくわかってはいない。周囲が泣いて、僕が笑って息を引き取る。1人寂しく、月明かりの下でゆっくりと死んでいく。荒波が岩を打つ崖の上から、決死の飛び込みをする。自分がずっと生きてきた家の自室で、あるいは地元の川辺、橋の下で、首を吊る。美しい字と文章で遺書を書き、遺した人々を涙の渦に巻き込む。愛する人を殺し、愛し、僕も一緒に死ぬ。美女に見守られながら息を引き取る。仲の良い友人に別れを告げ、惜しまれながら死んでゆく。挙げるとするならばそんなものだろうか。

 あとは見た目の美しさもあるだろう。病死であれば見た目に損傷は出ないかもしれないが、加齢による衰弱死はちょっと醜いかもしれない。飛び降りや飛び込みはグロテスクだし、首を吊ったらそれこそ垂れ流しだ。

 

 そんなこんなで、過去の自分は選びきれなかったのだ。いや、実は選びきれなかったというのは言い訳で、ただ死の恐ろしさから逃げていただけかもしれない。多分そうだと思う。何度か首を吊ろうかとしたこともあるけれど、なにかとつけてその場でやめていた。苦しいのは嫌だとか、醜く死ぬのは嫌だとか。そのくせして喉元に包丁を突き刺そうとしたりするのは嫌がった。ただ怖かっただけなのだと思う。

 

 結局、美しき死とはフィクションの中にしかありえないのかもしれない。僕が死んで、それを美しき死だと評価する人はいるかもしれない。でもそれは僕の死後であり、僕にその直接的な評価は届かない。つまりは、僕が最終的にその死が美しいと感じることができなければ意味がなく、僕にとっての美しき死が、僕に残らなければならないのだ。

 美しき死の選択肢は多すぎる。きっと僕は自分の選択に後悔する。その時点で死は、美しくなってしまう。

 

 最終的に思ったのは、どんな手段をとったって、どんな時期に死んだって同じことだということ。結局、僕という人間はどこかで後悔をするのだ。この世にどれだけ見逃した美しいものがあろうと、人生を賭けても全て見ることなんかできやしないだろう。どれだけ望みがあろうとも、その全てを叶えることなんかできやしない。結局何かを削って、そこで後悔するんだろうと思う。

 

 ならば何故今なのかと問われれば、一応の答えはある。単純に、疲れるからだ。普通の、至極真っ当な人間として生きるのは、疲れるからだ。大学を出て、仕事をして、結婚をして、子供を作って、おじいちゃんになって、生きながらえさせてもらいながら死んでいく。これをこれから60年もの間にこなすのだ。あまりにも長すぎる。それをするのならば、これからそれが始まる前に、終わらせてしまいたかったのだ。上がるにせよ下がるにせよ、中途になる前に。

 若さ故の過ち、将来への不安、若気の至り。きっとそんな言葉で済ませてしまえる事だろう。僕も実際そう思うし、現実、僕より恵まれていない人間なんて山のように居ると思う。社会に出る前に、1人の人間として生きていくことから逃げているとも言われるかもしれない。その通りだと思う。自分でもこれは身勝手で傲慢なわがままであることは自覚している。

 僕が養護教諭を志していたのだって、仕事をするならばこれ以外だとストレスで死ぬと感じていたからだ。諸々の理由はあれど、それが1番大きい。働かずに生きていけるのであれば、それが1番だ。でもそうはいかない。社会保障だってあるけれど、それに縋ってまで生きていたくもなかった。豊かで、自由な暮らしを。それがなければ死んでも良い。そう感じていたからだ。

 結局のところ、僕は人間として生きていくのに向いていなかったんだと思う。僕という人間は本当に面倒な奴なのだ。何をするのにも面倒臭がる癖に全力を出したがり、たいした能力もない癖に見栄を張り、その上エネルギー総量まで平均以下ときた。無駄にエネルギーを使い、無駄に疲れ、無駄に虚勢張って生き続けるだけに思えてしまう。必ずしも不幸せな未来になるとは思わない。でも、必ずそれを回避できる保証もないのだ。

 

 さて、書きたかったことや伝えたかったこともまだまだあるけれど、とりあえずはここまでにしておこう。長かっただろうか、短かっただろうか。みんながどう感じたかはわからないけれど、ここまで読んでくれてありがとう。冒頭付近に仰々しくも本文なんて書かせてもらったけれども、この文に本題なんてものはない。ただ溜め込んだものを吐き出しただけだ。きっと僕は、これから死ぬための試みをするだろう。もし失敗して、帰ってきたら、笑いながら殴り殺してほしい。もし成功していたら、別に何もしなくてもいい。みんなに今まで通りの生活を、楽しく過ごしていってほしいと思う。

 

 今まで本当にありがとうございました。願わくば、皆の将来に幸多からんことを。そして、僕が残した呪いに苦しめられて生きてもらえればと思う。

 

 それじゃあ、またどこかで会おうね。

多様性って難しくね?

 最近結構これについて考えることが多いんですよね。実際目指してる職業が結構これに関わることもあるし、僕の周りにもそれについて考える人が多いから

 

 僕がこれについてマジで疑問に思ってるというか、違和感を感じてるのが『多様性認めろやカス』みたいな罵倒なんですよね。いやみんな罵倒はしてないけどこんなスタンス多いでしょ。特にマイノリティじゃない人がこれを声高に叫んでるイメージ強い。ごめんこれは完全に僕の主観です。

 

 まあそんなこんなで、ある時どっかの先生がツイートしてるのを見たんですけど、その内容が「体が男で心が女は気持ち悪い!」という子どもの発言に対して怒りや衝撃を抱いたってのだったんですね。僕はこれ見た時に、別に考え方を規制するべきではないんじゃないかなって思ったんです。考え方を規制するんじゃなくて、人を不快にさせないという意識そのものを根本から作らないといけないと思うんです。

 このツイートには書いてなかったけど、後々考えてみたら多分僕程度の人間が考えることくらいその先生は考えてるやろなって思った。まあでも僕の知見になったし良いツイートをしていただきました。ありがとうございます。

 

 で、最近は結構表現規制とかが話題になること多いじゃないですか。ラブドール、エロ表現の規制から、誹謗中傷の規制までいろいろね。僕はそういうの本当に意味がないと思ってて、言葉や表現を何かの基準で取り締まったとしても、悪意のある言葉は人を傷つけるし意図された配置がエロく見えることだってあるんですよね。結局臭いものに蓋をするだけか、上っ面だけの規制になるんです。

 抑圧は解決の手段にならないよ。これはどっかの作家さんと思しき人の言ですけど、表現を規制するのは、火事になってしまうので火を規制しようとか、交通事故が起こるから車を規制しようとしてんのと一緒だよ。

 

 ここで元の話に戻るんですけど、その考え方がおかしいと言って押さえつけ別の考え方を持たせるのは今までヘテロセクシャルの人間ががセクシャルマイノリティの人間を押さえつけて異性愛者社会を作り上げてきたのと一緒でしょ。

 多様性って言葉の通りいろんな考え方があるわけじゃないですか。それを認め合える社会ってのは多様性を認めない人間も存在できるべきだと思うんですよね。でもそれはいくら憎くても殺人や傷害してはいけないのと同じで、自分がいくら気持ち悪いと思おうとそれを口に出してしまうと傷つく人がいて、それをしちゃよくないよねって話なんだよ。本当にそれだけの話

 

 多分これは誹謗中傷の規制にも関係すると思うんだけど『人が不快に思うことをしてはいけない』って僕ら小さい頃から教えられてるわけじゃん。学校で先生が教えるべきは『多様性の認め方』じゃなくて『自分の考え方を受け入れた上でどの様に関わっていくのか』なんだよな。当然正しい知識は必要だよ。性の知識然り、法律や社会のルール然り。

 これからは『いろんな考え方がある上でどう配慮すれば良いのか』を突き詰めていくのが最大の課題になると思うんだよな。前もTwitterで事件あったでしょ。投稿したマンガの冒頭に『レズ』って言葉を書いたことを指摘されてなぜか病んで引きこもった絵描きさん。これについて間違ってたらごめんなさい。情報収集不足かもしれません。

 あの事件の後いろいろ考えたんですけど、これからの創作物は冒頭に『この作品はフィクションです。現実とは一切関係がありません。不快になる描写があるかもしれませんのでご注意ください』って書くしかないよなって思ったんですよ。これからまた更に多様性が広がった時に、全ての人に配慮して自己責任として創作物を見てもらうにはこういう一文が必要になるだろうなって。よく暴力系漫画にもこういうのあるでしょ?見たことなかったら今度見てみなよ。

 

 ここまで一息で書いた。とりあえず思ってること吐き出しただけです。まあ結局ねえ、多様性って一言にできてるから簡単そうに見えるけど、本当無限大に広がる言葉なんですよね。これは何度も書いたんだけど、多様性の中で生きる上で教えるべきは、考え方じゃなくて『人を不快にさせない』意識なんだよ。不快にさせてしまったならその時謝れば良いし、自分もそれでまたそういう人がいるんだなって学べば良い。

 

 

 まあ極論この考え方も多様性のひとつであって、考え方を根本から解決していくべきだー!!って論を推進していく人はそれで良いんじゃない?って思う。僕とは相容れないので、僕の前でこの議題は出さないようにしてね。

 だからこの文も、どっかの誰かが適当に脳内垂れ流しただけの一意見として見て欲しいなって思う。実際その通りだし。僕がいつも言ってるのは、この通りの考え方を知られってわけじゃなくて、こういう見方もあるんだなって知識を得て欲しいだけなんですよね。

 

 ああ、多様性って難しいなあ。今日はこれで脳はシャットダウンします。疲れた

恋愛について思うこと

 恋に生きてきた、とは言わないまでも、これまでに「恋愛」に向けた思考時間はかなり多いと思う。

 僕を知っている人々は「その見た目で何を言うか」とか、「お前程度が」とか思うかもしれないが、その気持ちをぐっと堪えてこのページを閉じるか読み進めるかして欲しいと思う。

 

 僕がそういった興味に目覚め始めたのは、多分中学2年生の頃だ。詳しく覚えてない。それに自覚するまでは、周りがどれだけ恋で騒ごうとも「誰も好きじゃ無い」とか「恋とかわからん」とか、それ以上に恥ずかしい中2じみた事を言ってたかもしれない。正直なところ覚えてないし、思い出そうとも思わないけれど。

 そこからはずっと、誰かのことを「好きでいようと」していた。当時の僕、というか今でも少し思っているけれど、病んだ心にも、病む前の予防にも、誰かへの恋心は特効薬になるのだ。

「誰かを好きで居る」というのはかなり心と思考のリソースを割かれることであって、心の拠り所というか、思考の矛先を誰かに向けていることがなによりも楽なことだった。結果誰かに嫌われたり避けられたりしても、常に誰かに心を預けていることで自分の平穏を保っていたかったのだと思う。冷静になって文字に起こすと傍迷惑なことでしか無いな。反省の他ない。当時僕に散々迷惑をかけられた人には、この場で謝罪させていただきたい。申し訳なかった。

 そういう事もあって、自信を持って人を好きになったと言えるのは4回くらいしかない。これを多いか少ないかどちらに捉えるかは人によりけりだと思うけれど、僕はこの回数をかなり少ない方だと思っている。周りが結構ませてた人が多かったし、僕自身「好きだと思い込んでいる偽恋」の数がそれより圧倒的に多いからね。本当にすみません。

 

 とまあ、そんな僕が1年近くも誰かに恋をしていない、というのは驚くべき事実である。偽恋も本気恋も含めて、の話だ。ここ1年近く(正確には1年ないけれど)「誰かを好きでいる」状況が全くなかった。出会いが全くなかった訳ではないし、心理状態が安定した訳でもない。

 先に述べておくけど、結論が出た訳でも、正解を導き出せた訳でもない。これはただの備忘録なので。

 

 確かに「付き合っている相手がいる」という事は僕にとって大きな足かせではある。これは数年前から自覚している確かな僕の考え方だ。僕は結構「性別」に関してフリーダムな考え方の持ち主であるせいか、異性の友人と同性の友達が同数程度にいる。異性の友人と遊びに行こうと思っても「付き合っている相手」が居ると、どうしてもその相手に気を使ってしまうし、遊びに行く友人にも気を遣わせてしまう。付き合っている相手がどう思うと僕が気にするし、友人によっては気にする人も居る。そんな事もあって、「来るもの拒まず去るもの追わず、別れる時には縁切らず」がモットーである僕にとって、大きな障害だった。それであっても付き合いたいという感情があったからこそ、今までそういう関係になっていただけた経験があるのだ。

 とは言え、当然のことだけれども誰かを好きでいる事が必ずしも交際という結果になる訳ではない。本来、僕みたいなやつの相手をしてもらえるだけでもありがたい事なので……

 誰かを好きでいる、というのは簡単なことなのだ。好きでい続ける事や、相手から思って貰うことは難しくともだ。だからこそ、僕は自分の現状に大きな驚きを感じているのだ。それすらもしようとしていないことに。

 

 あー、ここまでうだうだうだうだと話してきたけど、結論僕が言いたかったのは「今までずっと誰か好きでいたしそれが自分にとって普通だっただけどここ1年近く全く何もなく過ごしている自分に驚いている」というだけの話だ。 2行ちょっとで終わる話をここまで長引かせてすみません。

 まあでも、ここまで色々考えた結果、自分恋愛に向いてる人間じゃないなあって結論には至ったよ。好きになった相手が出来ても、まずそれ自体を疑うことから始まるからね。本当に好きか?って自分に確かめんといけんから。

 以前友人に「お前って恋人いるメリットあんの?」と問いかけられた時、僕は何も答えられずにいた。嘘だ。辛うじて「精神の安定が保てる……」ぐらいの返事はできた。でも確かに僕に恋人いるメリットないよなぁとも思った。デメリットばっかじゃん?1人の恋人のために幾らかの友人関係潰すのも嫌だし。

 僕がたまに漏らす「恋人が欲しい」って言葉の理由なんですけど、単に恋愛をしたい訳じゃなくて「議論ができて、感動の共有ができて、ある程度の相談ができて、親しき中でも礼儀は保てて、軽く飲みに行こうぜって超絶気軽に誘ったり誘われたりできる、お互いに都合の良い存在」が欲しいからなんだよな。極論恋人じゃなくても良いけど、でも多分僕が理想とするこの関係を一言で表すなら恋人なんだと思う。だから僕はずっと恋人が欲しいって話をするんです。多分。自分のことなのに自信が持てん。

 

 備忘録これで終わり。突然始まって突然終わるけど許して。結論なんか今出さんし、出したいとも思ってもないので。結婚願望が出てそれにそう相手が出来たらまた考えようかな。

 じゃあまたね。生きていたらまた会おう。

一から了まで

 美人薄命とか、天才は早死にするとか、そういう話は昔からよく聞く。実際、天才と呼ばれた多くの人々は早死にするイメージがある。ニルヴァーナカート・コバーンとか、ミッシェルガンエレファントのアベフトシなど、あげればキリがない。

 僕は今日、ヒトリエのボーカルであり、ボーカロイドを使用した楽曲を製作しているwowaka氏が亡くなった事を聞いた。先日のライブが中止されたのはこれが原因だったのかと冷静に考えている自分と、ショックで何も言えずにいる自分がいた。

 このブログを書き始めたのは、Twitterでそのことを知り、そのままそこで自分の考えを垂れ流し続けるのは憚られたし、不特定多数の人間がさらっと目にしてしまうSNSの場ということもあったからだ。そこでこのブログに書くような内容をショックを受けた人々に見せつけるわけにもいかず、耳当たりの良い言葉を探していたのだけれど、そうやってわざわざ捻り出したような言葉を吐き出すのも違うだろうと思う。

 不謹慎だとか批判を受けるのが怖いとか、そういう訳ではなく、鬱を加速させてしまうのが申し訳ないという事です。失意のどん底にある人はここでこのブログを閉じてください。

 

 僕は元来ボーカロイド等合成された音声が苦手で、その他の楽曲は避けて生きてきた。否定するわけでも肯定するわけでもなく、ただ単に苦手だから避けてきたのです。ところが、当時ロックのサウンドに魅了され、ヒトリエというバンドに出会いwowaka氏を知り、彼の作成したボーカロイドの楽曲を聴くようになった。現在の、現在で言う"ボカロらしさ"という1つの音楽の形、時代を作り上げた彼の楽曲は当然の評価を受け、僕も当然のように虜となった。とは言え、合成音声が苦手なことは変わらず、調声が上手い、サウンドに溶け込んでいて、1つの楽器として機能しているなどの特徴がない限りは他のボーカロイド楽曲を聴くことはできなかった。

 wowaka無しではボカロの歴史を語れない、と言って良いほどの存在だと思う。今でこそ米津玄師という名前で有名になったハチさんと同列に語られるほどに。それほどまでに大きな影響をボーカロイド界に与え、時代を作り上げた、そんな才の持ち主だ。決してこんな若くして奪われてはならない命だっただろう。

 才能というものは、枯渇はしてもそれそのものが失われることがないものだ。でもそれは、死んでしまったら意味がないものだ。生きていれば、作ってきたものを大切にしつつ暮らす中で、新たなものをさらに作り出すことができるかもしれない。

 変なプライドにすがりついて枯渇した才能で出涸らしのようなものを作り続けるより、いっそそこで全てを捨てて、今までのものを愛しながら生きていってほしい、それが出来なければ全てを捨ててしまったり、いっそ死んでしまった方が完成されると僕は思っている。僕はこの考え方にどれだけ否定的な意見を受けようと、これが変わることはない。僕は幸せの高みを通り越して失意のどん底に落ちたところで死ぬより、幸せの絶頂の中で死にたい。そういう考えがベースになっているのだと思う。だからと言ってその方々に死ねと言っている訳ではないし、ここが落ち目だなと感じたらすぐに離れるようにしている。それは僕がその先を見たくないからでもあるし、その時点で、僕が離れた時点でその人々は完成された最高の人間たちのままで保存されるからだ。例外はあるが、それはまた別の時にでもお話しようと思う。

 それでも、その考えがあっても、wowaka氏はここで死ぬべきではなかったと思う。まだ残っていた才を使い切っていないように思えたからだ。僕の中での絶頂期は、3年前に発売された『IKI』のアルバム曲である『リトルクライベイビー』が発表された時だ。聞いた瞬間に鳥肌が立った。才気という風が全身に吹き付けてくるような感覚に陥った。この曲1つを聞くだけでヒトリエというバンドがわかってしまうような、そこまで思ってしまえるようなそんな曲だった。この時から、僕はヒトリエを追いかけないようになった。

 当時の僕は、ヒトリエというバンドは完成されてしまったのだと感じてしまったのだ。その後の曲達は以前と雰囲気が変わったとは思うが、落ち目だとは思っていなかったし、その後の曲が出涸らしだとも思っていない。ただ単に、僕の中で、ヒトリエというバンドがリトルクライベイビーで完成してしまっただけなのだ。自分が自分として生きている時代に、自分の目の前で完成された姿を見てしまい、僕はどうすることもできなかったのだ。

 一から了まででやっと完成のはずなのに、了にたどり着く前に完成してしまっていた。僕の中では完成してしまったとは言ったけれど、僕は心のどこかで了の完成を楽しみにしていたのだ。解散をするにしても、何十年後の老衰にしても、持てる才を全て使い切り、吐き出し切った後であれば僕はここまで苦しんでいなかっただろう。そうでなくとも、ミッシェルのラストライブでの世界の終わりのような、plentyの蒼き日々のような、そんな終わり方であればよかったのだ。それが今回のような、急性の、突然の死によって強制的に幕を下ろされるような終わり方は本当に苦しかった。

 僕が覚えている限り、人の死でこんなに苦しんだのは初めてだと思う。苦しんでいる理由が「その死に自分の中で納得がいかない」というなんとも自分勝手な理由であるのが情けない話ではあるけれど。

 今の僕には綺麗なまとめ方はできないけれど、自分の考えや思っていたことは書ききったように思います。彼の音楽に影響された人たちや、彼と関わって生きた全ての人々が、綺麗な完成を目指せるように、心の底から応援しています。ここまでありがとうございました。

備忘録の備忘録の備忘録

 続くかわからないんですがね。メインの備忘録としていつもはTwitterを使っていたんですが、量が多くなったことと日常のツイートもする事があるので見にくくなったしまったんです。

 不定期かつ、完全なる個人的意見ばかりなのでご覧になる方は注意してください。

 僕は普段、備忘録を結構取ってたりするんです。頻度の話でもあり、その時にとる備忘録の回数や量の話でもあります。僕は備忘録を取るために備忘録を取り、備忘録の備忘録を取るために備忘録を取ります。どういうこっちゃねん、と思われるかもしれませんが、僕はその時に感じたことや考えたことをその場でメモして、それをスマホのワードにメモして、備忘録を書くのです。僕は頭がそんなに良くないので、書く内容を忘れたり、書く行為自体を忘れることが多々あります。もっと言うと同じことを答えが出るまで考えたり、映画を見てても映画から連想されることをつらつら考えていって結局全く別のことを考えていたり、挙げ句の果てにはその備忘録さえ取れずに考えていたことを忘れ、なんのことを考えていたかとまた考え直してしまうこともあります。

 貧乏暇なし、と言いますが、馬鹿にも暇がないのです。馬鹿ではない人が、さっと思いついて一発で頭に叩き込めるものを、僕はその数十倍の時間かけなければ頭がから滑り落ちていってしまうのです。そこまでしても数ヶ月後、数年後には頭になんか残っていません。だからこそ備忘録の備忘録の備忘録を取っているのです。

 結局、ここの備忘録はなんのための備忘録か?ということなんですが、将来の自分が、今の僕を見て馬鹿にするための備忘録です。今僕が感じたこと、考えたことは今の僕にしか書けません。今の僕の感性が、30を過ぎても残っているとは思いません。今のこの考えを、忘れてしまうにはもったいない。そう思ったからこそ僕はここに備忘録としてネットの海に流そうと思うのです。所謂メッセージボトルって奴ですね。

 実は、僕が昔書いてたブログもこのネットの海に漂ってるんです。それを思い出してこのブログを作ろうと思い立ちました。黒歴史ですが消すつもりもありません。でも探さないでくださいね。お願いしますよ。フリじゃないです。