備忘録

虫さんなので走りません

美しき死を

※注意!

 ガチで死のうとしてた時のガチの遺書です!

 また、以降の文章と遺書については、自殺を推奨する文章ではありません。ご留意ください。

 

 僕は自殺決行直前に良き出会いがあり、今に至ります。過去の自分に対して思うところは色々ありますが、供養のため投稿したいと思います。

 僕は今の自分に対して「生きていてよかったね」「死ななくてよかったね」なんて言葉は絶対にかけないようにしています。なぜなら当時の僕が死の決断をしたことの勇気を踏み躙ってしまうから。

 死を決断するというのはとてつもないエネルギーです。死を悩んだ人にはわかるはず。それを決断した自分に対して、そんな言葉はかけられないしかけようとも思わない。

「自殺 方法」とかで検索すると出てくるよくあるサイトで「良い出会いがあるよ」「幸せがこの先に待ってる」なんて言葉や「昔は死のうと思ったけど今は幸せ。生きていてよかったと思うからあなたも生きて」なんて言葉を聞いてムカムカしていた自分が、同じ言葉を過去の自分に投げかけれると思う?

 昔の自分にかけれる言葉なんて「お前は設定1の人生で頑張った」「無理すんな、どんな人生でも辛いことは辛い」「生きても死んでも良いことも悪いこともある」そんな言葉ばかりだ。死んでも(クソウマギャグ)僕は「生きて!」なんて言葉はかけられない。

 今死ぬことを迷っている人もいるだろう。そこの決断する壁はでかい。そこを乗り越えた人に僕からかけられる言葉は、労いの言葉だけだ。

 乗り越えようとしている人、乗り越えかけの人へ。僕は生きろなんて言わないから安心してほしい。ただ、後悔が残らないようにだけ気をつけてほしい。

 

 以降の文章は当時の遺書そのままの文章です。 

 読む方によってはかなり辛い気持ちになってしまう方もいるかもしれないので、ご注意を。

 大丈夫な方は、スクロールどうぞ。

 

 

 

 

2019/9/28本文作成開始

2020/8/31下書き保存

2020/12/25投稿予定

■まずはじめに家族、友人、その他関係者の皆様へ。

 突然のことで驚かれたことだろう。いや、半ば予測していた人も居たかもしれないし、こいつならばいつかこういうことをすると思っていた人も居るかもしれない。そんな貴方は僕のことをよく知っている。えらい!

 さて、これから書くことは単なるお願いだ。もちろん無視する権利もあるよ。でもまあ、少なくともこのブログを目にするだけの関係性を持った人であれば理解してくれると信じている。

 お願いというのは、今回起こったことは「事故」だと各方面に連絡していただきたい。という事だ。何か聞かれても事故が起こっただけ。まあ実際大きく間違っている訳ではないと思うし。

 そして、僕がそれなりに仲良くしていると判断した人にはこのブログを広めてほしいのだ。本当につまらない駄文ではあるけれど、不幸の手紙よろしく広めてやってくれ。仲良かった友人には普通に本当のこと教えてあげたいし、遠慮せずに伝えてね。

 それから、家族には多分Twitterのアカウントを使えるようにして残しておくと思うから、それで今回の事とブログを公開してもらえればなと思う。よろしくね。

 葬式に関しては任せた。家族だけでやってもいいし、俺のTwitterで募ってもいいし。そこら辺は好きにして。

 

 

■本文

 いつか死ぬならば、美しき死を。そう思いながら生きて来た。思春期を迎える前からぼんやりと感じ、思春期を経て確かなものとなった。不確定な死を迎えるのなら、すぐにでも美しき死を演出しても良いとまで思っていた。

 

 敬愛するwowaka氏が亡くなった時にもお話させていただいたと思うが、僕は絶頂を絶頂のままで保存したいと感じる人間だ。衰退が美しきものであればそれで良いけれど、殆どの場合はそうではない。これも同様に、不確定な美しさであるなら確実な美しさを求めた方が良い。ここまで書いて思ったのだけれど、きっと僕はギャンブルは向いていないだろう。回数を経るごとに蕁麻疹が出てそのうちに死ぬと思う。

 

 では、僕の考える美しき死とはなんだろうか。これは実際、僕もよくわかってはいない。周囲が泣いて、僕が笑って息を引き取る。1人寂しく、月明かりの下でゆっくりと死んでいく。荒波が岩を打つ崖の上から、決死の飛び込みをする。自分がずっと生きてきた家の自室で、あるいは地元の川辺、橋の下で、首を吊る。美しい字と文章で遺書を書き、遺した人々を涙の渦に巻き込む。愛する人を殺し、愛し、僕も一緒に死ぬ。美女に見守られながら息を引き取る。仲の良い友人に別れを告げ、惜しまれながら死んでゆく。挙げるとするならばそんなものだろうか。

 あとは見た目の美しさもあるだろう。病死であれば見た目に損傷は出ないかもしれないが、加齢による衰弱死はちょっと醜いかもしれない。飛び降りや飛び込みはグロテスクだし、首を吊ったらそれこそ垂れ流しだ。

 

 そんなこんなで、過去の自分は選びきれなかったのだ。いや、実は選びきれなかったというのは言い訳で、ただ死の恐ろしさから逃げていただけかもしれない。多分そうだと思う。何度か首を吊ろうかとしたこともあるけれど、なにかとつけてその場でやめていた。苦しいのは嫌だとか、醜く死ぬのは嫌だとか。そのくせして喉元に包丁を突き刺そうとしたりするのは嫌がった。ただ怖かっただけなのだと思う。

 

 結局、美しき死とはフィクションの中にしかありえないのかもしれない。僕が死んで、それを美しき死だと評価する人はいるかもしれない。でもそれは僕の死後であり、僕にその直接的な評価は届かない。つまりは、僕が最終的にその死が美しいと感じることができなければ意味がなく、僕にとっての美しき死が、僕に残らなければならないのだ。

 美しき死の選択肢は多すぎる。きっと僕は自分の選択に後悔する。その時点で死は、美しくなってしまう。

 

 最終的に思ったのは、どんな手段をとったって、どんな時期に死んだって同じことだということ。結局、僕という人間はどこかで後悔をするのだ。この世にどれだけ見逃した美しいものがあろうと、人生を賭けても全て見ることなんかできやしないだろう。どれだけ望みがあろうとも、その全てを叶えることなんかできやしない。結局何かを削って、そこで後悔するんだろうと思う。

 

 ならば何故今なのかと問われれば、一応の答えはある。単純に、疲れるからだ。普通の、至極真っ当な人間として生きるのは、疲れるからだ。大学を出て、仕事をして、結婚をして、子供を作って、おじいちゃんになって、生きながらえさせてもらいながら死んでいく。これをこれから60年もの間にこなすのだ。あまりにも長すぎる。それをするのならば、これからそれが始まる前に、終わらせてしまいたかったのだ。上がるにせよ下がるにせよ、中途になる前に。

 若さ故の過ち、将来への不安、若気の至り。きっとそんな言葉で済ませてしまえる事だろう。僕も実際そう思うし、現実、僕より恵まれていない人間なんて山のように居ると思う。社会に出る前に、1人の人間として生きていくことから逃げているとも言われるかもしれない。その通りだと思う。自分でもこれは身勝手で傲慢なわがままであることは自覚している。

 僕が養護教諭を志していたのだって、仕事をするならばこれ以外だとストレスで死ぬと感じていたからだ。諸々の理由はあれど、それが1番大きい。働かずに生きていけるのであれば、それが1番だ。でもそうはいかない。社会保障だってあるけれど、それに縋ってまで生きていたくもなかった。豊かで、自由な暮らしを。それがなければ死んでも良い。そう感じていたからだ。

 結局のところ、僕は人間として生きていくのに向いていなかったんだと思う。僕という人間は本当に面倒な奴なのだ。何をするのにも面倒臭がる癖に全力を出したがり、たいした能力もない癖に見栄を張り、その上エネルギー総量まで平均以下ときた。無駄にエネルギーを使い、無駄に疲れ、無駄に虚勢張って生き続けるだけに思えてしまう。必ずしも不幸せな未来になるとは思わない。でも、必ずそれを回避できる保証もないのだ。

 

 さて、書きたかったことや伝えたかったこともまだまだあるけれど、とりあえずはここまでにしておこう。長かっただろうか、短かっただろうか。みんながどう感じたかはわからないけれど、ここまで読んでくれてありがとう。冒頭付近に仰々しくも本文なんて書かせてもらったけれども、この文に本題なんてものはない。ただ溜め込んだものを吐き出しただけだ。きっと僕は、これから死ぬための試みをするだろう。もし失敗して、帰ってきたら、笑いながら殴り殺してほしい。もし成功していたら、別に何もしなくてもいい。みんなに今まで通りの生活を、楽しく過ごしていってほしいと思う。

 

 今まで本当にありがとうございました。願わくば、皆の将来に幸多からんことを。そして、僕が残した呪いに苦しめられて生きてもらえればと思う。

 

 それじゃあ、またどこかで会おうね。